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東京地方裁判所 平成7年(合わ)216号 判決 1998年5月14日

主文

被告人を懲役七年に処する。

未決勾留日数中七〇〇日を刑に算入する。

理由

(認定事実)

被告人は、宗教法人オウム真理教(以下、「教団」という。)に所属していた信者で、教祖であり教団代表者でもあったXことMの妻であるとともに、教団内部において正大師と称する幹部の地位にあった。

平成六年一月三〇日午前三時ころ、教団を脱会した元信者であるY及びO(当時二九歳)は、山梨県西八代郡上九一色村富士ケ嶺<番地略>にある第六サティアンと称する教団施設(以下、「第六サティアン」という。)で治療を受けていたYの母親を連れ出そうとし、教団信者らに催涙ガスを噴射するなどしたが、これに失敗して捕えられた。これを知ったMは、教団幹部であるAらをして、Oらを同村富士ケ嶺<番地略>にある第二サティアンと称する教団施設(以下、「第二サティアン」という。)に連行させるとともに、自らも被告人に誘導させて第二サティアン三階の「尊師の部屋」と呼ばれる暝想室に赴いた。

被告人は、「尊師の部屋」において、MがOらの行為を教団に敵対する行為であるなどとしてOらを殺害しようとしたことに対し、同所に集まった教団幹部であるA、I、Sらとともにこれに賛同し、さらに、Mが、YをしてOを殺害させることにして、ここにM、A、I、Sら並びにMの指示を受けてOの殺害を承諾したYと共謀の上、Oを殺害しようと企て、そのころ、同所において、Yが、手錠を掛けられたまま座らされたOに対し、ガムテープで目隠しをし、その頭部にビニール袋を被せた上で袋内に催涙ガスを噴射し、さらに、Oの頚部にロープを巻いて絞め付け、この間、A、Iら教団幹部が暴れて抵抗するOの身体を押さえるなどし、よって、そのころ、同所において、Oを窒息死させて殺害した。

(証拠)<省略>

(補足説明)

一  弁護人らの主張の要旨

被告人は、平成六年一月三〇日ころの未明に、「尊師の部屋」において、Mの指示のもとに、その場にいたA、Iら教団幹部とYとがOを殺害したこと、被告人が殺害行為の行われている間、殺害現場である「尊師の部屋」の中にいたことは認めているものの、MらとO殺害を共謀したことはなく、また、殺害現場にはいたものの、被告人にはなすすべがなかったと供述し、弁護人も、被告人は、MらとO殺害の共謀をしたことはなく、無罪であると主張する。

しかしながら、当裁判所は、被告人とMらとの間には、O殺害に関する共謀が成立しており、被告人も共謀共同正犯として殺人罪の責任を負うと判断したので、以下、その理由を補足して説明する。

なお、以下の説明においては、関係者の当公判廷における供述、公判手続更新前の公判調書中の供述部分、捜査官に対する供述を区別することなく、いずれも「供述」として説明する。

二  前提となる事実関係等

1  関係証拠によると、被告人の教団内における地位、OらがYの母親を第六サティアンから連れ出そうとした経緯、Oらが第六サティアンにおいて教団信者に取り押さえられ第二サティアンに連行された経緯、被告人が第二サティアンに赴いた経緯、MがYに対しOの殺害を命じた状況、YらによるOの殺害状況、O殺害後の状況等について、以下の事実を認めることができる。

(1) 被告人は、昭和五三年一月七日にMと婚姻し、千葉県船橋市内に居住するなどしていた。

Mは、昭和六一年ころから、オウム真理教の前身であるオウム神仙の会を結成し、静岡県富士宮市等で宗教活動を行うようになった。被告人は、当初はこれに関与していなかったものの、昭和六三年一〇月ころに同市内の教団施設に転居してからは、Mの指示により修行や宗教活動を行うようになった。

(2) Mは、信者の宗教上の体験の達成の度合いに応じて、「ステージ」と称する教団内での称号(階級)を付与していたが、被告人は、平成元年ころに「大師」と称するステージを与えられ、平成二年に「正悟師」、平成三年には「正大師」と称するステージに達した。「正大師」のステージは、教団内で、教祖でもあるMを除く最高の地位であり、平成六年一月時点では、被告人を含め四名がこの地位にあるにすぎなかった。なお、本件に関与した者のうち、BとAは、当時「正大師」に次ぐ「正悟師」の地位にあり、他の者はいずれも「師」という地位にあって、いずれも教団幹部であった。

(3) Yは、平成四年春ころ教団を脱会した元信者であり、その母親であるFは、パーキンソン病の治療のため、Yの勧めもあって教団に入信し、平成三年一一月ころからオウム真理教附属医院に入院していた。

Oは、教団の信者で、同医院の薬剤師を勤めていたことから、入院中のFの世話をするなどしており、Yの父親であるEとも面識があった。

(4) Oは、平成六年一月下旬ころ教団を脱会したが、そのころ、Y、Eに対し、Fに対する教団の治療方法が適切でないので、教団施設から教団に無断でFを連れ戻すとともに、OがFの治療をするとの計画を持ち掛け、同月二四日ころまでには、Y、Eともにこれを承諾し、同月二九日の深夜にFを連れ戻しに行くことになった。

(5) 同月二九日夜、O、Yは、それぞれEと待ち合わせをし、Eの所有する栃木ナンバーのトヨタクラウンに乗車して山梨県内の教団施設に向かった。そして、第六サティアン付近の駐車場で、OとYは、Oが準備した教団の出家信者が着るサマナ服に着替え、催涙スプレー、火炎瓶、サバイバルナイフ等を分担して携帯するなどし、翌三〇日午前三時ころ、第六サティアンに立ち入った。他方、Eは、第六サティアン付近路上に車を駐車させてOらが戻るのを待った。

(6) OとYは、第六サティアン三階医務室で寝ていたFを見つけ、同女を連れ戻そうとしたが、同サティアン内にいる教団信者らに発見され、催涙ガスを噴射するなどして抵抗したものの、A、C、Dら多数の教団信者に取り押さえられ、両手に前手錠をはめられるなどして拘束された。その後、事態をMに報告したAの指示で、OとYはワゴン車に乗せられ、第二サティアンに連行された。A及びOらを取り押さえていたC、Dらもワゴン車に乗車し、Oらを監視しつつ第二サティアンに向かった。

(7) Mの専属運転手を務めていたSは、Oらが第六サティアンに立ち入った当時、同サティアン三階のシールドルームと称する個室でパーフェクト・サーベイション・イニシエーション(以下、「PSI」という。)と称する修行を行っていたが、騒ぎに気付いて室外に出たところ、Oらが教団信者に取り押さえられて階下に連れて行かれる状況を目撃した。このとき、Sは、「尊師に報告しろ。」という信者の声を聞き、車を運転することになるかもしれないと考えて自室に戻ろうとしたが、その際、三階階段付近の流し台で顔を洗っていた者から、「OとYが乱入してきて催涙ガスをまいて暴れた。」との説明を受けた。その後、Sは、Mの指示を受け、Mの専用車であるベンツの準備をし、その運転席で待機した。

(8) 教団の東京本部長であったIも、第六サティアン三階のシールドルームでPSIの修行中、騒ぎに気付いて様子を見に行ったところ、信者らに取り押さえられそうになっているOらを目撃し、Oらから催涙スプレーを掛けられて、同サティアン二階の洗面所で顔を洗うなどしたが、その際に、信者の話から、OとYがFを連れ出しに来たことを認識した。そこで、Iは、同サティアン一階にあるMの居室に行ってその旨の報告をし、その後、Gに運転を依頼して第二サティアンに向かうことにした。

(9) Aらの報告でOらの行為を知ったMは、Sに運転を命じて第二サティアンに向かうことにした。

他方、被告人は、当時、第六サティアン一階の自室でPSIの修行をしていたが、Mから呼び出され、同人から、下向サマナが侵入して暴れ、サマナに危害を加えたらしいなどと言われ、目の不自由な同人の誘導を依頼された。そこで、被告人は、同人を誘導して玄関先に止まっていたベンツの助手席に同人を乗せ、自身は後部座席に乗車して、Sの運転により第二サティアンに向かった。

(10) 第二サティアンに到着したM、被告人、S、A、I、Gらは、それぞれ同サティアン三階の「尊師の部屋」に赴いた。

他方、OとYは、第二サティアン北側出入口付近でワゴン車に乗車したまましばらく待機させられ、Aの指示によって同サティアン三階北西側エレベーター前付近でもしばらく待機させられた後、同じくAの指示によりYだけが先に「尊師の部屋」に入室させられた。

(11)ア Yは、同人を監視していたDとともに「尊師の部屋」に入ったが、その際、室内には、M、被告人、B、A、I、C、Gらがいた。Mは、東側壁際に据えられたソファに座り、被告人は、その左斜め前二メートル内外の位置の畳の上に、部屋の中央方向を向いて座っていた。

イ なお、被告人の位置や向きについて、被告人は、Mの左斜め前方三メートル位の場所に、ソファのある東側壁面の方を向いて座っていたと供述するが、この供述は、Y、D、C、Gらの供述に反し、信用することができない。

(12) Mは、同人の前に正座をしたYに対し、Fを連れ出そうとした理由や、OとFとの関係等を問い質し、OとFの関係について、OがFと肉体関係を持つなどしたことから教団がOとFを引き離したが、Oはそれを不満に思ってFを連れ出そうとした、OはFを教団から連れ戻した後、Fと結婚するつもりであり、YやEがこれを止めようとした場合には、YやEを殺すつもりだったなどと説明した。

(13)ア その後、Mは、Yに対し、YがOに騙されて教団に対する破壊行為をしたり、修行をしている母親を無理やり連れ戻そうとしたことはぬぐうことのできない大きな悪業であって、確実に地獄に落ちるなどと言った後、Yは帰してやるが、それには条件がある、なんだか分かるかなどと言った。Yは、再度オウムに入信して一生懸命修行をすることかと尋ねたが、Mは、それもあると言った上で、その条件は、YがOを殺すことだ、それができなければお前もここで殺すと言った。Yが黙っていると、Mは、再度、OがFを真理の道から引き下ろそうとしたこと、教団に攻撃を加えたこと、Yを騙してYにも悪業を積ませたことからOはポアされなければならないとOを殺害する正当性を説明し、Yがどうしたらいいんですかと尋ねたところ、ナイフで心臓を一突きにしろと言った。Yは、考える時間がほしいなどとMに話したが、Mからはこれを拒否され、今すぐ決めろと言われた。そのうち、Mが、Yに対し、「あの車、お前のか。」と尋ねたので、Yは、Oを殺害することから逃れたい一心で、Eの車であること、Eの運転で来たこと、Eは車に乗っていると思うということを話した。しかし、Mは、父親が来ていようがいまいが関係ないとしてYに決断を迫り、Yも、MからOを殺害すれば自分は帰してもらえるとの約束を得たことから、結局、Oの殺害を承諾した。被告人は、この間、前記の位置に座っていたが、特段の言動を示すことはなかった。

イ なお、Sは、車の話が出たのはMがYにOの殺害を命じる以前であると供述し、弁護人も同様の主張をする。しかし、Yの供述する事態の推移は自然であるし、当時、Eは、五歳になるYの弟も同行していたことが明らかであるから、Eが一緒に来ていることを話すと同人らも危険な目に遭うかもしれないと思いながらも、MからO殺害を迫られていたことからEの運転で教団施設に来て、Eは車の中にいると思うとMに説明したというYの供述は、心情の面からもよく理解できるのであって、十分信用できるというべきである。

(14)ア その後、Mの指示により、Oが「尊師の部屋」に連れて来られ、両手に前手錠をされた状態で、室内に敷かれたビニールシート上に座らされた。Yは、Oの目を見ながら殺害することができなかったことから、Mの許しを得て、周りにいた者から受け取ったガムテープでOに目隠しをした。そのころ、ロープでOの頚部を絞め付けて同人を殺害することに決まったが、その前に、Mの指示で、Oに催涙ガスを浴びせ掛けることになり、YにおいてOの頭部にビニール袋を被せた上、その袋内に催涙ガスを噴射した。この後、Yは、Aからロープを受け取り、これをOの頚部に一回巻き付けて絞め付け、さらに、Aの指示で、二つ折りにしたロープの輪になった末端に右足を掛け、他方の末端を両手で引っ張る形でOの頚部を絞め続け、苦しんで暴れるOの身体を、周囲にいたA、I、G、D、Hらが押さえ付けるなどし、そのころ、Oを窒息死させて殺害した。被告人は、この間もMの左斜め前に座ったままであり、殺害現場を見るなどしていたが、特に発言等はしていない。

イ なお、被告人は、Oが「尊師の部屋」の反対側に連れて来られてからはOの方向を見ておらず、「もうしませんから許してください。」という大きな声が聞こえたときに一度振り返ったが、それ以外はソファのある東側の壁面の方向を見ていたと供述し、Gも、被告人を見たときには、被告人はMの方を向き、ソファの方か、その背後の壁面にかかった仏画の方を見ている状況だったと被告人の供述に符合する供述をしている。

しかしながら、Gは、Oに対して目隠しではなく、ガムテープで猿ぐつわをしたので、O殺害の最中にOから意味のある言葉は発せられる状態ではなかったとか、催涙ガスが室内に充満したことはなく、窓を開けた者もいないとか、室内にいる者がOの周りに集まり暴れるOを押さえ付けていたというのに、Gは付近で傍観していたと供述するなど、他の者が一致して認める事実に反する不自然な内容であることに加え、Sが、GもOの足を押さえていたと供述していることからしても、GのO殺害時点の供述は信用性に乏しい。また、Oは、催涙ガスをビニール袋内に噴射されたときや、頚部を絞められている際、人殺しであるとか、助けてくれ、あるいは、もうしないから助けてくれ、もう悪いことはしないようなどと大声で何度も叫び、悲鳴を上げるなどしていたのであるから、「もうしませんから許してください。」という大きな声が聞こえたときに一度しか振り返らず、その後は、物音はしたが声は聞こえなかったという被告人の供述も不自然というほかない。かえって、S、I、Dのいずれもが、被告人が殺害現場の方を見ていたと供述していることからすると、O殺害現場の方向を一度しか見なかったという被告人の供述は、信用性に乏しく、むしろ、被告人においても、殺害状況の一部始終かどうかはともかく、何度かは殺害現場の方を見ていたと認めるのが相当である。

ウ もっとも、Iが、Oの身体を押さえることになった理由の一つとして、被告人が殺害現場をじっと見守っていたことからMの目の代わりをしていると認識し、過去に告げ口をされたこともあって恐怖心が湧いたことを挙げている点は、問題であろう。すなわち、Iの検察官調書には、Iが足を押さえているときに被告人を見ると、近眼なので目を細めて見ていた、淡々とことの成り行きを見ていた、という趣旨の記載がされており、供述の変遷が認められるところ、その変遷の理由は必ずしも合理的なものではなく、また、関係証拠によれば、被告人は、裸眼視力が左右それぞれ〇・一か〇・二程度であり、しかも本件当時、被告人が眼鏡を使用していたとは認められないことから、被告人において、一〇メートル程度離れた場所で行われている殺害の状況をMの目の代わりとなって逐一見守ることは困難と思われるのであり、被告人がO殺害現場の方を見ていたという点はともかく、Mの目の代わりになって事態を見守っていたとか、そのことが原因となってIがOの身体を押さえ付けたという点は、その信用性に疑問が残るといわなければならない。

(15) Oの死亡は、医師であるHが確認したが、その後、Mは、Yに対し、Oが蘇生しないように頚部を絞め続けるよう指示し、Yの見張り二名程度を残して、その場にいた者を呼び寄せた。その際、Aが、Oらが第六サティアンで取り押さえられたときに警察に行くなどと言っていたのでこのまま帰して大丈夫かとMに尋ねたが、Mは、YがOを殺したのだから警察には行けないだろうと答えていた。その後、Mは、BにOの遺体の処理を命じ、さらに、室外に待機していたJとKを「尊師の部屋」に呼び入れた。そして、Mは、Jらに、OがFを連れ戻しに来たり、教団に対する攻撃を行ったり、Yを騙して悪業を積ませたのでポアしたなどとOを殺害した経緯を説明し、J、K、Dに対し、Bに従って遺体の処理をするように指示し、Jらは、ビニールシートの所に行ってOの遺体をビニールシートで包み、Bの指示に従ってこれを地下室に運んだ。

(16)ア JらがOの遺体を包み始めるのと入れ替わりにYがMの前に呼ばれ、YがMの前に座ると、Mは、Yに対し、なぜ今まで道場に来なかったなどと聞き、今後は週一回は道場に来るようにと命じ、Iに対し、入信の手続をするように指示した。

イ 被告人は、KらがMに呼ばれて以降の事の推移について、「Mは、Kと話をした後、被告人を呼び寄せて『これで私の恐ろしさが分かっただろう。』などと言い、その後、HがOの所持品をMに見せながら説明したり、AがOの手帳の中身を読み上げるなどしてから、Mが被告人に対し『お前には見せたくなかったよ。』、『どう思うか。』と言ったので、『法則に反したのだから仕方がなかったのかもしれない。』というようなことを言った。それから、YがMの前に座ってMと話を始めた。」などと供述する。しかしながら、O殺害後に現場にいたS、I、D、Y、Gは、いずれもKらが入室して遺体の処理を命じられた後、YがMの前に呼ばれて週一回道場に通うようになどと言われたと一致して供述していることに照らすと、事の順序についての被告人の供述は信用性に乏しい。なお、被告人の発言等については、別項において、詳細に検討する。

(17)ア Mは、Yに対し、Eには、Fが徐々によくなっている、OはFの治療のために残ることになったと伝えるように指示し、事件について他言をしないように命じてからYを解放した。Yは、「尊師の部屋」を出るときにAから手錠を外され、IとAに送られてEの車に戻ったが、途中の車内でも、Aらから、父親に対する説明内容として同様の指示を受けた。Aらは、EにYを引き渡し、IがEからOのナップサックを受け取って第二サティアンに戻り、Mにその旨の報告をした。

イ なお、MからEへの説明内容の指示を受けたか否かという点について、Yは、車中でAらから言われたことは確実だが、「尊師の部屋」でMから直接言われたかどうかについては、現在記憶にないと供述している。しかし、この点も、車中でYに指示をしたIだけでなく、Yを送らずに「尊師の部屋」にとどまっていたSが、Mの指示の内容として同様の供述をしていること、その供述も、Yが、Eにどう報告したらいいかとMに尋ねてMがそれに答えたと具体的であることからすると、Yが、Mから直接指示を受けたというI、Sの供述は信用してよいと思われる。

(18) Oの遺体がD、J、Kによって地下室に運び出され、A、IがYを連れてEの車に向かった後、Mのそばには被告人とSが残ったが、その際、Mが「ヤソーダラー(教団内における被告人のホーリーネーム)には見せたくなかった。」などと言い、それに対し、被告人は「法則」という言葉を使って答えた。Mは、Sにも意見を求め、Sも意見を述べようとしたが、BがMと話し始めたため腰砕けになった。その後、A、Iが戻ってMに報告をし、さらに、Oの手帳の内容がBらによって読み上げられ、Sもその内容を確認するなどした後、Mらは第六サティアンに引き上げることになり、被告人は、Mを誘導してSの運転するベンツに乗車し、第六サティアンに戻った。

(19) 同年二月上旬ころ、Iらは、Yが道場に来なかったことから、Mの指示によりYの所在を調査し、Yが秋田市内のアパートにいることを突き止めたことから、同月中旬ころ、B、A、I、H、D、GらがYのアパートに赴き、同人を教団に連れ戻そうとしたが、同人が、警察に通報したことから失敗に終わった。

2  以上の事実関係に照らすと、MがYに対してOの殺害を命じ、M、Y及びその場にいたA、I、H、G、Dらが共謀の上、Oの頚部をロープで絞め付け、暴れるOの身体を押さえ付けるなどしてOを窒息死させたことは優に認められる。また、被告人は、YらがOを殺害している間、「尊師の部屋」内にとどまっていたこと、被告人は、直接O殺害の実行行為を行っていないことも明らかである。

そこで、次に、被告人とM、Yらとの間に、O殺害の共謀が認められるか否かについて検討する。

三  関係者の供述要旨

1  Sの供述要旨

Sは、第二サティアンの「尊師の部屋」において、Yを同室内に入室させる前に、Mから、居合わせた教団幹部に対し、YとOを殺害するがどうかという趣旨のことを言われて意見を求められたが、その際、被告人もこれに賛同する意見を述べたなどとして、要旨、以下のとおり供述する。

(1) 事件当日の夜は、第六サティアン三階のシールドルームでPSIの修行をしていたところ、シールドルームのドアを叩かれ、表に出てくださいと言われたので、出てみると、治療室のある階段の方で騒ぎが起きていた。そこに行くと、OとYが教団の者に手足をつかまれて、階段の下に連れて行かれるところだった。そのとき、「尊師に報告しろ。」という声が聞こえたので、Mが第六サティアンから移動する場合に備えてシールドルームに戻ることにした。部屋に戻る途中で、三階の階段付近の流し台で顔を洗っている者がおり、同人から、OとYが乱入して暴れ、催涙ガスを掛けられたということを聞いた。その者の顔を確認したわけではないが、Lという教団の医師ではないかと思った。その者からはそれ以上のことは聞いていない。

(2) その後、Mから車を準備するように指示されたので、ベンツを用意してMの居室出入口前付近で待機した。Mは、被告人に先導されて出てきて、助手席に乗車し、被告人は助手席側後部座席に乗り込んだ。Mから第二サティアンに行ってくれと言われて出発したが、発車後、Mは、「これから処刑を行う。」と言った。びっくりしてMの顔を見ると、険しい顔をしていた。普段は、Mの長女や三女が先導役を務めているのに、この日は被告人が先導役を務め、車にまで乗ってきたことから、Mが、OとYを本気で殺すつもりであると思った。ルームミラーで見ると、被告人は少し緊張しているように見えたが、何も言わなかった。Mは、自分にどこにいたんだなどと聞くので、「シールドルームにいました。誰か催涙ガスを掛けられた者がいたようです。」と答えた。公道に出ると、栃木ナンバーのクラウンクラスの車が道を塞いでいたので、クラクションを鳴らし、その車が道路右側によけたのでその横を通った。そのとき、Mが、「どうしたんだ。」と聞くので、「栃木ナンバーのクラウンが道を塞いでいます。教団の車ではありません。」と答えた。捜査段階においては、この車にLのような人が乗っていたと供述したことがある。第二サティアンに着くまでの間に、被告人とMとの間で会話が交わされた記憶はない。

(3) 第二サティアンに着いてから、被告人、Mに続いて「尊師の部屋」に入ると、Mはソファーに、被告人は近くの畳の上に座り、自分と前後して入室したB、A、I、GらがMと向き合って座った。AかBか誰かが、OとYの所持品をMに説明し、Mは所持品である手裏剣を手に取って確認するなどしていた。その後、Mから、「これからポアを行うがどうだ。」と言われた。ここでの「ポア」は、人を殺すという意味である。すると、最初にBだったと思うが、「尊師のおっしゃるとおりだと思います。」あるいは「ポアするしかないですね。」などと言い、続いてAも同じ様なことを言った。さらに、Iが、「泣いて馬謖を斬る。」などと言って賛成した。私も、多分、「仕方がないですね。」というようなことを言ったと思う。B、Aの賛成意見に対してMが満足したような感じが窺えたので、反対できる雰囲気ではなかった。最後の方で、被告人が、「自分のまいた種ですからね。」と言った記憶がある。私は、被告人が反対意見を出せば、ひょっとしたらポアも中止されるのではないかと思った。被告人は、正大師で、Mの妻でもあり、また、被告人が怒り出したことでMが逃げ出したということも何回かあったからである。

(4) その後、Mの指示により、Yが室内に呼び入れられ、Mの前に正座させられた。Mは、Yに対し、「お母さんとOの関係を知っているか。」、「Oとお母さんがセックスをしたのを知っているか、お母さんとOがセックスをすることがいいことだと思うか。」などと聞き、Yは、「知りませんでした。」と答えた。さらに、Mは、Yに対し、「誰と来たんだ。」と質問し、Yは、「お父さんと来ました。」、「第二上九で、車の中で待っています。」と答えた。私は、第六サティアンから第二サティアンに向かうときに進路を塞いでいた栃木ナンバーの車だと思い当たり、Mに、「あのときの車です。」と報告した。このときまでは、栃木ナンバーの車とYなりOなりは結び付かなかった。この後、Yが、「ここから帰してほしい。」と言うと、Mは、「君がOを殺せ。」と言った。Yは、「私がやらなければいけないんですか、本当にそれだけでいいんでしょうか、ここから本当に帰してもらえるんでしょうか。」などと言っていたが、Mが、「私が嘘をついたことがあるか。」と言うので、結局、「分かりました。」と答えてO殺害を了承した。誰かから、首でも絞めて殺すかとか、催涙スプレーを掛けて窒息させるかという話が出たが、それ以外の話は記憶にない。

(5) その後、室内にビニールシートが敷かれ、Mの指示で自分と二名の者がOを呼びに行き、Oはビニールシート上に手錠を掛けられた状態で座らされた。そして、Oに目隠しがされ、ビニール袋が被せられた。Oが暴れ出したので、袋の中に催涙ガスが吹き掛けられたと思う。そこで、近くにいたC、G、DらがOを押さえ付けた。そして、YがOの頚部をロープで絞め始めた。YがOの頚部を絞め始めてから被告人のことを見たが、被告人は険しい顔をしてOの方を見ていた。結局、Oは死亡し、Hが死亡の確認をした。

(6) O殺害後、Mは、Bに死体を処理するように指示し、さらに、JとKを呼び入れてOを殺害した旨説明した上、Bの指示に従うように命じた。次に、Mは、Yを面前に呼び、道場に週に二回以上通うことを命じるとともに、Eには、「お母さんは徐々に良くなっている。Oはこちらに残ることになったから先に帰ることになった。」と伝えるよう命じた。Yが部屋から出て行く際、被告人は、Yに対し、「修行を頑張りましょうね。」と声を掛けていたと思う。さらに、ほかの信者たちが出て行き、Mと被告人の三人になったとき、Mが被告人に、「ヤソーダラには見せたくなかった。」と言うと、被告人は、「法則どおりだと思います。」と答えた。法則とはカルマの法則であり、原因は必ず結果を招来するという意味であると理解した。その後、Mは、Bとしばらく話をしてから被告人の誘導で室外に出て、私の運転で第六サティアンに戻った。

2  Iの供述要旨

Iも、Sと同様、「尊師の部屋」において、Yを同室内に入室させる前に、被告人がOらの殺害に賛同する意見を述べたなどとして、要旨、以下のとおり供述する。

(1) 事件当日の夜、第六サティアン三階のシールドルームでPSIの修行をしていたところ、女性サマナの叫び声が聞こえたので南西側階段の方に行くと、YとOが数人のサマナに取り押さえられかけているところだった。Yらは、焦った様子をしており、近付くと、催涙スプレーらしきものを掛けられたので、同サティアン二階の手洗所で目と喉を洗ったが、その間、YとOがFを連れ出しに来たということが分かった。そこで、東京本部の在家信者であったYが問題を起こしたことから、本部長としてMに報告に行った。Mは、すでにAから報告を受けていた。そして、同サティアン二階に戻ると、Aがワゴン車でOらを第二サティアンに連れて行くと言っていたので、Gに車の運転を頼んで第二サティアンに向かった。

(2) 私が、Gとともに「尊師の部屋」に入ると、中には、M、被告人、B、A、Sらがいた。Mはソファに座っており、被告人はソファのそばに座っていて、他の者は、ソファを囲むように座った。そして、Aが、OとYが第六サティアンに侵入して催涙スプレーをまき散らした事実をMに報告し、次いで、誰かが、OとFの関係について、両名が性欲の破戒をし、これが発覚したことからOは下向したなどという話をした。さらに、Aが、OとYの所持品について説明した後、Mが、「法則からいくならば、彼らは狂人にして帰すか、ポアするしかない。」と言った。この場合の「ポア」は、殺害の意味である。これに対し、Bが「ポアするしかないですね。」という内容の意見を述べ、Aも「二人が帰ったとして、被害者の会やマスコミに訴えた場合、教団にもマイナスですし、彼らが悪業を積むことになる。だとするならば二人をポアした方がいい。」と述べた。発言の順番は覚えていないが、C、S、Gも、ポアするしかないという意見を述べた。私は、「泣いて馬謖を斬るということわざもありますが、どうせ二人をポアするのでしたら、様々な人体実験をした方がいいのではないでしょうか。」と言った。これは、オウム真理教で生成を試していたボツリヌス菌や炭疸菌を使用するという趣旨であり、OとYをこの場で殺さずに時間を稼ぎ、また、時間を稼ぐ間に、被告人が反対意見を述べるよう望んだことからこのような意見を述べた。しかし、一番最後に、被告人は、「自分のまいた種だから仕方がないんじゃないでしょうか。」と殺害に賛同する意見を言った。その後、Mが、「YがOとFの関係を知らないとするならば、YもOに騙された被害者である。カルマからいって、YがOをポアすべきである。」という内容の話をし、Yを室内に入れるように命じた。

(3) AがYを連れてきて、Mの前に座らせた。Mは、Yに対し、「なぜお前はこんなことをしたのか。」と尋ね、Yが、「Oさんから話を聞かされて、お母さんのことが心配になったから。」と答えると、さらに、Mは、「お前はOとお母さんの関係を知ってるか。」、「性欲の破戒をしたりしてるんだ。」、「お前は帰してやるから心配するな。それには条件がある。お前がOをポアすることだ。」などと言って、Oの殺害を命じた。ポアという言葉のほかに、「殺す」という言葉も出ている。Yは、少し考えさせてくださいなどと言っていたが、Mに対し、「本当に帰してもらえるんでしょうか。」などと確認をし、Mが「私が嘘をついたことがあるか。」と答えたことから、結局、O殺害を了承した。殺害方法としては、Mから「ナイフで心臓を一突きにしろ。」という話が出ていた。

(4) その後、Oが室内に呼ばれ、室内に敷かれたビニールシート上に座らされた。そして、Yは、Mの許可を得てガムテープを使ってOに目隠しをし、Mの指示によりOの頭にビニール袋を被せ、その中に催涙ガスを噴射した。さらに、Yは、Aから渡されたロープでOの頚部を絞め付けたが、Oが暴れ出したので、AらがOを押さえ付けた。その際、Mが、「できないなら俺がやる。」と叫んだので、ほかの信者が皆押さえに行き、私も押さえに行った。Oは、助けてくれ、もうしないよ、死にたくないよなどと言っていたが、結局、死亡し、Hが死亡を確認した。Mは、Oが蘇生しないよう、頚部を絞め続けるようにYに指示した。

(5) Oの死亡後、Aは、Mに対し、「Yを帰せばまずいのではないか。」と言ったが、Mは「大丈夫だろう。」と言っていた。また、Mは、BにOの死体の処分を指示した上、JとKを呼び入れ、Oを殺害したことを説明して死体の処理を命じた。次いで、Mは、Yに対し、一週間に一回は道場に来るようにと言ったほか、「Oはお母さんの治療のために戻ったと言え。お母さんの病気はどんどん良くなっているとお父さんに伝えるように。」と命令した。O殺害の前後に、Mが、Yに対して、父親が来ているかどうかの確認をしていたが、時期ははっきりしない。その後、Aと私がYを連れ出す際、被告人は、Yに対し、「修行頑張ってね。」と言った。自分達は、YをEのもとまで送り届け、EからOの黒いナップサックを受け取って、「尊師の部屋」に戻り、様子をMに報告した後、第六サティアンのシールドルームに戻った。

3  被告人の供述要旨

これに対し、被告人は、Oらの殺害に賛同したことを否定し、むしろ、Mに対しては、Oらに制裁を加えないように遠回しに諌めたとして、要旨、以下のとおり供述する。

(1) 事件当日、第六サティアン一階の自室でPSI修行をしていたところ、Mから電話で部屋まで来るように指示を受け、PSIの帽子を被ったままコードのコネクト部分を外し、眼鏡も掛けずにMの部屋に行った。入室してMに「ヤソーダラーです。」と告げると、Mは、「下向サマナが侵入して暴れ、サマナに危害を加えたらしい。何とかしなければならない。誘導してくれ。」と言うので、Mを誘導して外に出た。

(2) 玄関先にMの車が止まっていたので、Mを助手席に乗せ、私は助手席側の後部ドアから乗った。発車後、Sは、Mからの質問に対し、「シールドルーム」にいました。ウパーリ師(教団所属のNのホーリーネーム)、シーハ師(同Pのホーリーネーム)がスプレーを掛けられたのを見ました。」と答えていたが、このスプレーが信者への危害とは分からなかった。Mが、「ヤソーダラー、お前はどうしたらいいと思うか、警察は助けてくれないからな。」と聞いてくるので、私は、「大事の前の小事と考えて、危険なことはしないでください。」というようなことを言った。危険なことというのは、警察沙汰になるようなことという趣旨だが、Mは無言のままだった。その後、ベンツの前に白いクラウンが止まっていたことからベンツも停車し、私は、これに気が付いて、「誰のクラウンかしら。」と言い、Mが、Sに事情を尋ねると、Sは、「Yが乗ってきて、Yの父親の車をLさんが回して待機している。」という意味のことを言った。そこで、私は、Mに、「Yさんのお父さんが知っているんじゃないかしら。」と言った。父親が心配し始めないうちに帰してもらえるのではないかと思って言ったことだが、Mは無言であった。

(3) 第二サティアンに着くと、Mと私は、エレベーターで三階に上がり、「尊師の部屋」に入室したが、Sは、ベンツを移動させる作業があったことから、一緒に入室したことはなかった。Mと私が「尊師の部屋」に入る際、Aに声を掛けられ、Mは、Bを呼ぶように指示した。部屋に入ると、Mはソファに座り、Hに連絡を取るように指示してきたので、私は、一旦室外に出てHに電話をし、第二サティアンに来るように言ってから室内に戻ると、Mが一人でソファに座っていたので、私は、電話を掛けたことを伝えるとともに、「自動車のことを忘れないでください。」と言った。しかし、このときもMは無言であった。私は、Mの左斜め前に三メートルくらい離れて座っていたが、その後、気が付くとAがMと話をしており、AがMの指示で、師以上の者を呼びに出ていった。同時にMが立ち上がって出入口の方に歩き出すので、私も誘導しようとして出入口に向かうと、信者がどやどやと部屋に入ってきてMと立ち話を始めた。そこで、私はもとの場所に戻り、ソファ背後の壁の方を向いて座った。立ち話はすぐに終わり、Mはソファに座ってIと二人で話をしていた。Iは、耳をMに近付け、「サリーちゃん」という言葉で話をしていたが、ほかの信者は少し離れてばらばらに立っていた。その後、BもMのそばに来て、「これはもう、そうするしかないと思います。」と言っていた。さらに、Aも、このままO達を帰したら、被害者の会になんとかなどと言っていた。この間、私はMの前の人々の中に入ったり、何か発言したりしたことはない。

(4) その後、Yが入ってきてMの前に正座した。Yが手錠を掛けられていたかどうかは自分の位置からは見えない。Mは、Yに、OとFの関係を話し、次第に、YがOを殺したら助けてやるという話になった。その中で、Mが、「私が嘘をついたことはあるか。」ということをYに言ったこともあると思う。結局、YはO殺害を承諾したが、MとYとの会話に誰かが口を挟める状況ではなかった。具体的な殺害方法の命令はなかったが、その後、AとMの二人の話の中で、ナイフという言葉が聞こえた。部屋を出て行きたい気持ちだったが、恐ろしくて動けなかった。

(5) Oが「尊師の部屋」に連れて来られたのがいつなのかははっきりしないが、Oは、部屋の反対側に連れて行かれた。そして、MがHを呼び、スプレーで死ぬかどうかを確認していたが、Hの答えは窒息ということ以外聞き取れなかった。スプレーの話からしばらくして、「もうしませんから許してください。」という大きな声が聞こえ、声の方を振り返った。部屋の反対側でみんながひとまとまりに固まっていたような印象がある。その後は、また、元通り、Mのソファ背後の壁の方を見ていたが、Hが、Oが死亡したということを言うまで、声は聞こえなかった。室内にいる間、ロープは見ていないし、ロープという言葉も聞いていない。

(6) Oが死亡した後、Mは、その場にいる者の名前をBに報告させ、次いで、Mは、警備にも見せておいた方がいいなどと言ってKを呼んで話をし、さらに、Mは、自分を近くに呼び寄せて、「これで私の恐ろしさが分かっただろう。」と言った。私は恐ろしくて何も言えなかった。このときは周りに誰もいなかった。その後、HがMに対してOの持参した武器類の説明をし、Mが手裏剣を手に取って触っていた。また、AがOの手帳を持ってきて、その内容をMに読み上げたが、そこには、OがFとの恋愛を成就させるためのマントラを唱えたとか、Fを助け出した後にYの父親を殺す計画などが書かれていた。このとき、OとFの恋愛の話が本当であると分かった。さらに、サマナが集まってきて、私もMの左前に近付くと、Mは、「ヤソーダラー、おまえには見せたくなかったよ。」と言った。わざと見せたのに自己中心的な発言をするので黙っていたが、Mが「どう思うか。」と聞くので、「法則に反したのだから仕方なかったのかもしれない。」と言った。これは、OがFを助け出すのにYの父親を利用し、その後で父親を殺してFと一緒に暮らすという神の心に反することをしようとしていたから、自ら破滅したのかもしれないという意味であり、法則どおりとは言っていない。

この後、YがMの前に座って会話を始めたが、その中で、Mは、「Oはおまえの親父さんを殺そうとしていたぞ。」などと言ったほか、週に一回道場に通うように指示してYを解放した。Yは、AとIに送られて行ったが、私はYに対して何も言っていない。Iらが戻ってきてMに報告をしてから、私はMを誘導し、Sの運転する車で第六サティアンに戻った。

四  関係者の供述の信用性についての検討

1  そこで、関係者の供述の信用性について検討するに、S、Iの供述は、時間の経過により記憶が曖昧になった部分は認められるものの、いずれも具体的、詳細であることに加え、細部において異なる点はあるものの、「尊師の部屋」におけるMと教団幹部の共謀状況、被告人の発言内容、Oの殺害状況、殺害後の状況等について、概ね供述は一致しており、Yとの謀議状況、Oの殺害状況、殺害後の状況等については、YやDらの供述によっても裏付けられていることからすると、その信用性は高いと思われるが、共犯者の供述であることにもかんがみ、さらに詳しくその信用性を検討する。

2  第六サティアンから第二サティアンに移動する車中での会話内容に関する供述について

(一) 車中の会話内容に関しては、ベンツが発車した後にMが「これから処刑を行う。」と述べたか否かという点と、ベンツの進路を塞いでいたクラウンに関し、Sから、それがYの乗ってきたYの父親の車であるという説明をし、これを受けて、被告人が、Yの父親も知っているのではないかなどと言ったか否かという点が問題となる。Sは、前記のとおり、前者を肯定し、後者を否定して、このクラウンとYらとの関係が分かったのは、「尊師の部屋」でYの説明を聞いたときであると供述をしているのに対し(三1(2)(4))、被告人は、前者を否定し、後者を肯定する供述をしているので(三3(2))、以下に、それぞれの供述の信用性について検討する。

(二) Sの供述の信用性

(1) Sの供述が具体的で詳細であり、細部はともかく、大筋において井上、Y、Dらの供述と符号していることは、前記のとおりである。

(2) そして、Mから「これから処刑を行う。」と言われたという点については、SがO殺害事件を自ら警察官、検察官に自供した平成七年五月二九日付けの上申書においてすでに供述がされており、以後、この供述は一貫して維持されている。さらに、前記二で認定したとおり、Mは、Aらの報告により、OとYの侵入を知り、早速Sに運転を命じて第二サティアンに向かうことにしたことや、さらに、第二サティアンに到着し、「尊師の部屋」に入室すると、教団幹部らと話をした後、Yに対してOを殺害するように迫り、結局、Yや室内にいた教団幹部らをしてOを殺害させていることからすると、第二サティアンに向かう車中で、Mが「これから処刑を行う。」と述べたというのは、一連の事態の流れの中で、自然であり、十分納得のいくものである。

確かに、Mが右の言葉を述べた時期については、上申書が第六サティアンから第二サティアンへの移動後とされているのに、同年六月一二日付け検察官調書では、Mが第六サティアンでベンツに乗り込んだときとされており、ベンツを発車させた後という公判供述との間には変遷がある。しかし、この点について、Sは、自分としては一貫して車での移動中にMの言葉を聞いたと説明していたと供述し、上申書の記載については、当日は午前、午後と取調べが続き夜遅くなってから上申書を作成したので、移動中と書くべきところを移動後と書き間違えたのではないかと、また、検察官調書については、その調書自体が短時間で事件の概要についてまとめた調書であり、細かいところまで詰めずに作成されたので特に気にもならなかったが、検察官には、道路に出るまでの間には聞いたと供述したとそれぞれ説明している。当時の取調状況等を考慮すると、Sの説明する上申書の誤記についてはあり得ないことではなく、また、検察官調書の内容は、厳密にいえば時期が異なるけれども、発車直後の時期と大きく異なるものではなく、概略をまとめた調書であれば、Sがその点に違和感をもたなくとも不自然とはいえない。むしろ、当初から一貫して処刑を行うという言葉を供述していることや、後述のとおり、クラウンに関するSの供述が信用できることを考慮すると、この変遷は、Sの供述の信用性に影響を及ぼすものではないというべきである。

以上のとおりで、車を発車させた後に、Mが「これから処刑を行う。」と述べた旨のSの供述は十分信用することができる。

(3) 次に、クラウンに関し、Yの父親の車であるとの説明をSが行ったか否かを検討するに、関係証拠によれば、

<1> Sは、前記二(7)のとおり、騒ぎに気付いて第六サティアン三階の階段から二階に下りた付近まで行ったところで、Oらが教団信者に取り押さえられて階下に連れて行かれるところを目撃し、シールドルームに戻る途中、三階の流し台で顔を洗っているLと思われる者から、「OとYが乱入してきて催涙ガスをまいて暴れた。」との説明を受けたにとどまり、他の者から説明を受けるなどしていないこと、

<2> Eは、OとYが第六サティアンに向かった後、運転してきた栃木ナンバーのクラウンを教団施設横の道路上に駐車させて待機していたこと、

<3> 二、三〇分程度経過したころ、後方からクラクションを鳴らされたので、車を道路右端に移動させたところ、左横をベンツほか数台が通過し、その間、Eは頭を下げていたこと、

<4> Yは、Oとともに第六サティアンで教団信者に取り押さえられたときも、Eの車でEとともに来たことは伏せており、このことを初めて明かしたのは、「尊師の部屋」においてMからOの殺害を迫られたときであること

などの事実が認められる。右事実関係に照らすと、実際には、ベンツの進路を塞いでいたクラウンはE所有の車であり、車内にはEが乗車していたことになるが、Sが、第六サティアンから第二サティアンに向かう段階において、同車両がYの乗車してきた車であり、しかも、Yの父親の車であるなどということを認識していたとは認められない。

もっとも、弁護人は、Sがクラウンに乗車している人物をLと誤解したこと、また、第六サティアン三階の流し台でSがLと思った人物から事情を聞いた際、OとYが乱入して暴れ、催涙ガスを掛けられたという説明を受けたほかに、Yが父親の車で来ているなどと説明を受けた可能性もあることから、Sが被告人の供述するように説明をしたのであって、Sの供述は虚偽であると主張する。

なるほど、Sは、捜査段階でクラウンにLのような人物が乗っていた旨の供述をしたことを認めており、Sがその旨の誤解をしていた可能性はあること、被告人もSの誤解と同内容のLという人物の名前を挙げていること、Yは、「尊師の部屋」においてMと車に関する会話をした際、車にEが乗っている旨説明すると、Mは驚き、怒って、Sに対し、車に誰も乗っていなかったんじゃないかと言っていた旨供述していること、S自身も、クラウンを巡ってSが記憶している以外の会話がされた可能性も否定していないことなどからすると、Sが、クラウンにLと思われる人物が乗っている旨の説明をした可能性はあると考えられる。

しかしながら、前記のとおり、Yは「尊師の部屋」において初めてEの車で来たことを明かしており、それ以前の時点では、Yが父親の車で来たことを教団関係者は知らなかったと認められること、Yも、Mからは「あの車、お前のか。」と聞かれたと供述しており、このことは、Mも車の所有者が誰かを知らなかったことを裏付けていることからすると、クラウンに関しては、「栃木ナンバーのクラウンが道を塞いでいます。教団の車ではありません。」と説明した程度であり、このクラウンとYらとの関係が分かったのは、「尊師の部屋」でYの説明を聞いたときであるというSの供述は、十分信用することができる。

(三) 被告人の供述の信用性

被告人の供述内容は前記のとおりであるところ、右(二)(3)で認定した事実関係に照らせば、Sは、第二サティアンに向かう時点で栃木ナンバーのクラウンがYの父親の車だとは認識していないのであるから、Sが、「Yが乗ってきて、Yの父親の車」と説明したという点は、明らかに虚偽であるといわなければならない。そうすると、Yの父親の車であることを前提として、被告人がMに対し、「Yさんのお父さんが知っているんじゃないかしら。」と言ったという点も、同様に虚偽の供述といわざるを得ない。さらに、被告人は、車の中で、Mに対して「大事の前の小事と考えて、危険なことはしないでください。」と言ったと供述しているが、右発言も、Yの父親が知っているのではないかという発言と同一の意図のもとになされた一連の発言であることを考慮すると、やはり、信用性に乏しい。このほか、被告人は、SがNやPにスプレーが掛けられたのを見たと言ったが、ヘアスプレーを連想し、信者への危害とは分からなかったなどと供述もしているが、前記のとおり、Sは、NやPが催涙ガスを掛けられた場面を目撃していないこと、むしろ、Sは、Lらしき人物から催涙ガスを掛けられたと聞いているのであるから、Mに報告するのであれば、そのまま催涙ガスを掛けられた者がいたと報告するのが自然であることからすると、この点の被告人の供述も信用できず、結局、第二サティアンに向かう車中の会話内容に関する被告人の供述は、全体として信用性に乏しいというべきである。

3  Yが入室する前の「尊師の部屋」の状況に関する供述について

(一) S及びIは、第六サティアンから第二サティアンに移動し、「尊師の部屋」に入室した後、Mがその場にいたB、A、I、S、Gらに、Oらを殺害するがどうかという趣旨のことを言い、B、A、I、Sらがこれに賛同する意見を述べ、被告人も、「自分のまいた種ですからね。」などと述べてこれに賛同する意見を述べたと供述する(三1(3)、三2(2))。これに対し、被告人は、「尊師の部屋」に入ってからも、「自動車のことを忘れないでください。」と言ってMを諌めた後、Mから離れた位置に座っていたが、Mは、その後入室した師以上のステージの者と少し立ち話をし、ソファに戻って、I、B、Aと話をしただけで、SやIが供述するような場面はなかったし、被告人自身も発言をしていないと供述する(三3(3))。そこで、それぞれの供述の信用性について検討する。

(二) Sの供述の信用性

(1) Sの供述は、前記のとおり、具体的かつ詳細であり、Mが「ポア」という言葉を使ってOらを殺害するがどうかという趣旨のことを言ったこと、B、A、I、Sらがこれに賛同する発言をし、特に、Iは「泣いて馬謖を斬る」という特徴的な言葉を使って賛意を表したこと、被告人も、「自分のまいた種ですから」という言葉を使ってOらの殺害に賛同する意見を言ったことについては、Iの供述によっても裏付けられている。そして、前記二で認定したその後の事態の推移に照らしても、Sの供述は自然であることからすると、その供述の信用性は高い。Yは、MがYに対しOの殺害を命じたときも、周りにいた者は驚いたふうもなく淡々としていたので、これは決まったことなのだと思った旨供述しているが、このこともSの供述を裏付けるものといえよう。

(2) もっとも、Sの供述によれば、Sが記載した平成七年五月二九日付けの上申書、同年六月六日付け、同月一三日付け警察官調書、同月一二日付け検察官調書にはいずれも右会話場面が記載されておらず、同月一九日にSが本件で逮捕された後の同月二五日付け警察官調書、同月二七日付けの検察官調書に至って、右会話場面が記載されていることが窺われ、供述に変遷がある。しかし、Sは、右会話内容に関する記憶を喚起した経過について、「捜査官から謀議が行われたのではないかとか、何か持ち物が集められたりしたことはなかったかとか、誰かことわざのようなことを言った者はいないかなどと言われ、MがOの持参した手裏剣を持って、それに指を当てて見ている場面や、Iが「泣いて馬謖を斬る」と言ったこと、謀議の中でGがいてはいけないのではないかと思ったこと、Oを呼びに行き、外にいたサマナに帰るよう指示したことなどを思い出し、最終的に会話内容の記憶を喚起した。「尊師の部屋」に入室したときにY、Oを含め、多数の者が室内にいるというイメージは今でも残っているが、謀議の後、何回か部屋に出入りしているので、そのときの印象が残ったと思う。」と説明している。このような記憶喚起の経過は、具体的な根拠を伴っており、不合理とはいえない。また、会話場面を失念していた点についても、Sも供述するように、Sが本件について取調官に事情を説明し出したのは、事件後一年四か月程度経過した平成七年五月下旬であり、その間、Sは、自らが実行犯となった殺人事件や地下鉄サリン事件にも関与していることを考慮すると、O殺害に関する記憶が薄くなったとしてもやむを得ないところである。そうすると、記憶喚起の経過は合理的といってよいから、この点の供述の変遷はSの供述の信用性に影響を及ぼさないというべきである。

(3) なお、弁護人は、Sが「尊師の部屋」に入室した際、多数の者が室内にいたというイメージを持っており、現に、平成七年六月六日付け、同月一三日付け警察官調書、同月一二日付け検察官調書には、室内に入ったところ、O、Yがすでに連れて来られており、その周りを一〇人前後のサマナが取り囲んでいた旨の記載があること、Sは、Mらが車から下りた後、ベンツとワゴン車を入れ替える必要があったのであり、現に、Gは、Sがベンツの運転席に乗車してベンツを入れ替えていた旨供述しているのであるから、Sは、Mらに遅れて入室したものであり、この点からもSの供述は信用できないと主張する。

しかしながら、弁護人が根拠とするSの捜査段階の調書は、SがMらとの会話内容を思い出す以前の調書であり、YやOまでが室内にいたという内容からしても、Sも供述するように、会話の後、Sが何回か出入りしたときの印象、特に、SはOを入室させた後、外にいるサマナに対し帰るよう指示しているのであるから、そのときの印象に基づいて供述していたものと認められるし、Sが、入室時点で多数の者が室内にいたというイメージを持っているという点も、その中にYが含まれている点からして同様と考えられる。

ところで、Sは、「尊師の部屋」に入室した順序について、M、被告人、Sの順だが、「尊師の部屋」の前にある台所付近にいた一、二名の者が、被告人とSとの間に入るか、又は、これと同時くらいに「尊師の部屋」に入った、それはA、B、Cかと思うと供述している。そして、関係証拠によると、Sが運転するベンツより先にOらを乗せたワゴン車が第二サティアンに到着しており、Aだけが一旦第二サティアンに入っていることが認められ、このことからすると、Aは、Mらが第二サティアンに入る以前に「尊師の部屋」付近で待機していたと考えられる。また、Sは、平成五年一一月にMらが第二サティアンから第六サティアンに引っ越した後は、「尊師の部屋」には鍵が掛けられており、この部屋を使うときは、BかMの長女が先行して鍵を開けていたと供述しているところ、この供述は具体的で信用できるものであるから、Mの到着に先立ってBが第二サティアンに赴き、「尊師の部屋」の鍵を開け、その付近で待機していたと考えられる(被告人も、「尊師の部屋」に入ろうとした時点でAがいたことや、その直後にBがいたことを認める供述をしている。)。そうすると、SがMらに続いて「尊師の部屋」に入ろうとしたとき、台所付近に人がいて、一、二名が被告人とSの間に入るか、同時に「尊師の部屋」に入ったというSの供述は、右事実関係とも符合するといえるのであって、信用性は高く、Sは、Mらに続いて「尊師の部屋」に入ったと認めることができる。このことは、ワゴン車内で待機していたDが、待機中にワゴン車の横を紫色の服を着たMら三、四人が通ったという点からも裏付けられるといえよう。

他方、Gは、第二サティアンに到着してIがサティアン内に入ってからベンツの方を見るとベンツの運転席にSが乗っていて、ワゴン車と入れ替え作業をしていたと供述する。しかしながら、O殺害状況に関するGの供述が全く信用できないことは前記のとおりであることに加え、Iは、Gと一緒に「尊師の部屋」に入ったと供述していること、Gは、Yが「尊師の部屋」に入れられる直前に室内に入ったと供述しているものの、Y、Oが待機しているエレベーター前付近を通りながら、その付近にYらはいなかったと断言し、台所付近にいたのではないかという漠然とした供述をしていること、第二サティアン外で待機しながら、一人で「尊師の部屋」に入ることにした経過に関する供述も不自然であることなどからすると、Iに遅れて一人「尊師の部屋」に入ったとするGの供述は信用性に乏しく、そうだとすると、Iが第二サティアンに入った後にSを見たというGの供述もまた信用性に乏しいといわなければならない。

(4) 以上からすると、「尊師の部屋」に入ってからのMらとの会話に関するSの供述は十分に信用できるというべきである。

もっとも、YがOを殺害するに至った経緯については、SとIの供述は異なっており、Iは、「尊師の部屋」にいる者が意見を言った後、Mが、「YがOとFの関係を知らないとするならば、YもOに騙された被害者である。カルマから言ってYがOをポアすべきである。」という内容の話をしたと供述し、Yが入室する以前にYがOを殺害することもあり得るという内容になっているのに対し、Sは、Yが入室する以前の時点では、O、Y両名を殺害することになっていたが、MがYと会話をするうちにYの父親が来ていることが分かり、そこで、口封じのために、YにOを殺害させることになったと思うと供述している。この点の供述の相異が直ちに「尊師の部屋」での会話内容に関するS、Iの供述の信用性に影響を与えるものではないが、前記二のとおり、<1>「尊師の部屋」でのMと教団幹部との会話が終わると、まず、Yだけが室内に呼ばれ、Mの前に座らされてMから事情を聞かれていること、<2>MがYに確認した内容も、YがFを連れ出そうとした理由をきいた後、すぐに、OがなぜFを連れ出そうとしたのかわかるかと問い質し、Yが分からない旨答えると、OはFと関係を持つなどしたので、それに気付いた教団が二人を引き離したところ、不服に思ったOがこういう行動に出たなどとOとFの関係を説明していること、<3>その後、Mは、YもOに騙されて大きな悪業を積んだなどとしてYにOの殺害を命じていること、<4>MにO殺害を命じられてYが逡巡している間に、Mから車に関する話が出たこと、<5>YがO殺害を承諾するとOが室内に呼び入れられたが、Oに関しては事情を聞かれることなく、当初からビニールシート上に座らされ、直ちに殺害行為が開始されていることなどの諸事情が認められるのであり、この事実関係に照らすと、Iの供述の方が事態の推移を合理的に説明し得るのに対し、Yの父親が来ていることが分かったのでYにOを殺害させることにした旨のSの供述は、事態の流れにやや沿わない内容といわなければならない。実際の殺害現場において、Bが何度かYの行為を手伝おうとする者に対してこれを制し、Y自身にやらせろと命じているのも、Mが「カルマから言ってYがOをポアすべきである。」と述べたことを裏付けるものといえる。そうすると、YがOを殺害することになった経緯については、Sの供述の信用性にやや疑問の残る部分もあるが、この点は、経緯についての認識の違いであり、それ以前のMと被告人を含む教団幹部の会話内容に関する供述の信用性には影響を及ぼさない。

(三) Iの供述の信用性

(1) Iの供述は、前記のとおり、具体的かつ詳細であり、Mが「ポア」という言葉を使ってOらを殺害するがどうかという趣旨のことを言ったこと、B、A、I、Sらがこれに賛同する発言をし、特に、I自身が「泣いて馬謖を斬る」という特徴的な言葉を使って賛意を表したことに関しては、Sの供述とも符合しているところである。さらに、YがOを殺害することになった経緯については、前記(一)(4)のとおり、Iの供述が事態の推移を合理的に説明し得ている。そうすると、右の点に関するIの供述の信用性は高いといってよい。

(2) もっとも、被告人が「自分のまいた種ですからしかたがないんじゃないでしょうか。」と述べた時期については、捜査段階の供述との間に変遷が認められる。すなわち、Iの検察官調書では、被告人が「自分のまいた種ですからしかたがないんじゃないでしょうか。」と言った時期について、O殺害の前か後かよく覚えていないと記載されているのである。この点について、Iは、捜査段階から、殺害前の発言であることは記憶していたが、当時は、Mに対する帰依から、被告人が起訴されてほしくないと思っていたものの、捜査官から被告人は何か言わなかったかと聞かれ、口を滑らして被告人が発言したことを認めてしまったことから、せめて前後をあやふやにしておこうと思い、時期については意図的に嘘をついたと説明している。しかしながら、Iは、同じ調書において、Mが殺害の指示をした旨供述していることからすると、Mに対する帰依の延長から、発言の時期をごまかすことによって被告人を庇ったという理由は、やや説得力に欠けるものといわなければならない。

しかし、被告人が「自分のまいた種ですからしかたがないんじゃないでしょうか。」と発言したという点は捜査段階から一貫しており、前記二1(18)のとおり、被告人が「法則」という言葉を使ってMからの問い掛けに答えた場面にはIはいなかったことから、被告人のこの言葉を「自分のまいた種」などと取り違える危険性もないことなどからすると、時期はともかく、被告人が「自分のまいた種ですからしかたがないんじゃないでしょうか。」などとO殺害を肯定する意見を述べたという限度では、Iの供述も信用できるというべきであり、この供述は、Sの供述の信用性を裏付けるものといえる。

(四) 被告人の供述の信用性

(1) 被告人は、第二サティアンの「尊師の部屋」に一旦入室し、Mの指示でHに電話連絡をしてから「尊師の部屋」に戻ると、室内にMが一人でいたので、「自動車のことを忘れないでください。」と再度Mに言ったと供述している。しかしながら、前記2(二)(3)のとおり、第二サティアンに向かう車内で、Sがベンツの進路を塞いだクラウンについてYの父親の車であるなどと言ったことは認められないのであるから、クラウンがEの車であることを前提としてMに再度注意を促した旨の被告人の供述は、ベンツ車内での会話に関する被告人の供述と同様、虚偽であるといわなければならない。

(2) また、被告人は、捜査段階においては、第二サティアンに行ってから後のことは、ほとんど記憶にないと供述し、Yが入室する以前の状況については、「Mの左斜め前方で座っていると、Mが立って歩き始めたので誘導しようとしてMの方向に向かったが、そのとき、ドアからサマナがどやどや入ってきた。その場でMとサマナが立ち話を始めたので、元の位置に座ったが、Cが大きな声で返事をしていた。立ち話は長くは続かなかったが、立ち話の様子から、意見のまとまりがあるように見受けられ、被告人が望んではいない私的制裁を加える方向に動いていく気配が感じられて動揺した。Mは、いつのまにかソファに戻っていた。具体的には誰だか覚えていないが、サマナが何回もMのソファのところに行っていた。その中にAがいたことは覚えている。それからどの位時間が経ったのか分からないが、部屋の反対側で制裁が始まったらしいことが分かった。O殺害に関する場面でI、J、D、Gの姿を見たり、声を聞いたりした記憶はない。」と供述しており、Mのソファの前でのB、A、Iの会話内容は記憶していなかったというものである。しかるに、被告人の公判廷における供述は、前記三3(3)のとおりであって、B、Iらの会話内容が具体的に述べられているところ、その記憶を喚起した経緯、特に、Iが「サリーちゃん」という言葉を言ったという記憶喚起の経緯が明確ではない。加えて、被告人と同様にY入室前の謀議の存在を否定するCですらも、Yが入室する以前に、B、A、I、CらがMの前に半円状に座り、AがMに対し、Oらが第六サティアンでNに催涙ガスを吹き掛けたなどと説明し、BがOに関するこれまでのいきさつを説明した後、AがOの手帳の内容を読み上げ、Oが所持していたウエストポーチの中身を見せた、Mが立ち上がった場面はあるが、その場面で、CがMと話をしたことはないと供述しており、Cの右供述は、S、Iの供述を裏付けるものであって、これに反する状況を述べる被告人の供述は信用性に乏しいといわなければならない(なお、Cは、MがOを殺害する意図など有しておらず、むしろ、Oらを宗教的に救済しようとしていたということを前提として謀議の存在を否定しているのであり、他の関係者と異なる前提に立ったCの供述は、謀議の不存在を主張する被告人の供述を裏付けるものではない。)。

4  O殺害後の状況に関する供述について

(一) S及びIは、O殺害後、MがYに対し、週一回道場に来て修行をするようになどと命じて解放する際、被告人が、「修行頑張りましょうね。」という趣旨のことを述べたと供述し、Sは、Yが部屋から出ていった後、M、被告人、Sの三人になったとき、Mから、被告人には見せたくなかったと言われ、被告人は、「法則どおりだと思います。」などと答えたと供述する(三1(6)、三2(5))。他方、被告人は、Yに対しては声を掛けていないと供述し、また、Mに対しては、「法則に反したのだから仕方なかったのかもしれない。」と言ったと供述する(三3(6))。そこで、その信用性について検討する。

(二) まず、Yに対し、被告人が「修行頑張りましょうね。」と言ったか否かという点について検討するに、この点については、S、Iの供述が一致している上、MがYに対し、週一回道場に来て修行をするように命じたのに引き続いて、そばにいた被告人が「修行頑張りましょうね。」と言うというのは、その場の発言として自然であると考えられる。

もっとも、捜査段階で、被告人が「修行を頑張ってね。」と発言した旨の供述をしていたHは、これは取調官から、被告人の言動について厳しい追及を受け、これに抗しきれずに自分で創作して供述したものであり、実際には被告人はそのような発言をしていないと供述している。しかし、Hの供述によると、Hは、捜査官から、HもMと教団幹部のOら殺害に関する謀議の場面にいたのではないかと厳しく追及されながら、結局、最後まで、謀議と称する場面にはいなかったという供述を貫き通したというのであり、被告人の言動についての追及についてのみ、これに耐えきれなくなって被告人の言葉を創作したというのはやや不自然であること、また、捜査官の意図とすれば、被告人の共犯性を裏付ける言動、特に謀議段階での被告人の言動を追及したと思われ、Hの供述によれば、自業自得であるとか法則どおりという具体的な言葉まで出して追及されたというのであるから、Hが耐えきれなくなったというのであれば、自業自得であるとか、法則どおりという言葉に近い言葉を創作するのが自然と思われること、共犯性を裏付ける言動を追及していた捜査官が、Hの「修行頑張りましょうね。」と言ったという直接的には共犯性を裏付けるものではない言動に満足して、以後の追及が緩くなったという点も不自然であること、むしろ、Hが謀議と称する場面にいたことを否定することは、同時に、その場面での被告人の言動を知らないことにつながるのであるから、謀議と称する場面にいたかどうかについて厳しい追及を受けることはあっても、そのほかの場面での被告人の言動について、それほど厳しい追及を受けたとは考えがたいこと、Hは、新聞報道によって被告人のO事件に対する認否を認識していることなどを考慮すると、「修行頑張ってね。」という言葉をHが創作したという点は、にわかに信用できない。むしろ、Hにおいて、被告人が「修行頑張ってね。」と言った記憶があったからこそ、捜査官に対してその旨の供述をしたと認めるのが相当であり、この事実は、S、Iの供述の信用性を補強するものといえよう。

もっとも、Sは、被告人の言葉について、捜査段階でも話したと供述するものの、検察官調書、警察官調書には、その旨の記載がないことが窺われる。また、Iは、自ら、検察官、警察官にはその旨の話をしていないと供述する。そして、Sは、起訴後、Hの調書を読んでHが被告人の言葉を供述していることが分かったと供述していること、Iも、同様に自己の事件に関してHの調書を読む機会があったと窺われることなどからすると、Sらは、Hの調書を読むことによって記憶を喚起した可能性も否定はできないものの、これまで述べてきたところに照らせば、捜査段階でS、Iが被告人の右言動を供述していないことは、その供述の信用性に影響を及ぼさないというべきである。

なお、Yは、被告人から「修行頑張ってね。」と言われたことを記憶していないが、このやり取りは、YがOを殺害した直後のやり取りであり、Y自身も「被告人が何か言ったかは頭が混乱してはっきりしない。」と説明しているとおり、O殺害の衝撃等のため正確に記憶していないことによるものと考えられる。また、Dも、被告人の言葉を記憶していないが、Dは、J、KらとOの遺体をビニールシートで包んだ後、まだYが室内にいるうちにOの遺体を地下室に運び出しているのであるから、被告人の言葉を記憶していなくとも特段不自然なことはない。さらに、Gは、「尊師の部屋」内では被告人の言葉を一切聞いていないと供述しているが、言葉遣いはともかくとして、被告人も発言したことを認めている「法則」という言葉を使った言動についてまでも、明確に否定していることからして、その供述の信用性は乏しく、G供述は、何らS、Iの供述の信用性を損なうものではない。

(三) 次に、「法則」という言葉を使った被告人の言動について検討するに、前記二1(16)ないし(18)のとおり、被告人の供述するO殺害後の状況については混乱が見られるところであり、実際に、被告人がMから「お前には見せたくなかった。」と言われたのは、Oを殺害し、「尊師の部屋」にJ、Kが呼び入れられてOの遺体の処理を指示され、Yが解放された後で、BらがOの手帳を読み上げる前の時点であったことが認められる。そうすると、Oの手帳の内容を知ったことを前提とする被告人の供述には、やはり信用性に疑問が残るといわなければならない(もっとも、Cは、Yが「尊師の部屋」に入室する前にAがOの手帳の内容を読み上げた旨供述しており、Sも明確な記憶ではないとしながらも、BがOの殺害前に手帳の内容を報告した記憶があると供述していること、Yは、Mから、「尊師の部屋」に入室した時点で、YやEがOとFの結婚を止めた場合にはOはYやEを殺すつもりだったと言われていることなどからすると、Yが「尊師の部屋」に入室する前の段階で手帳の内容が読まれた可能性は否定できない。しかし、Sは、明確に手帳の内容を確認したのは、M、被告人、Sの三人の会話が終わった後であり、その際、なぜ、手帳を示すなり、その内容を具体的に教えなかったのかなという印象を持ったと供述していること、Iも、Bが手帳の内容を読んでいたのは、EからOのナップサックを受け取って「尊師の部屋」に戻ったときの記憶の方が強いと供述していることからすると、Yの入室前に手帳の概要について説明があったとしても、具体的に、詳しく手帳の内容が説明されたのは、M、被告人、S三人の会話の後であると認められるので、手帳の具体的な内容を前提とした被告人の供述は、やはり、信用性に乏しいというべきであろう。)。

これに対し、被告人が「法則どおりだと思います。」と述べたというSの供述は、上申書の段階から一貫していると認められるのであり、十分信用することができる。

5  Sらの供述から認定できる事実関係

右のとおり、Sの供述は大筋において十分信用でき、Iの供述も、一部に信用性に疑問がある部分もあるが、Sの供述と一致する部分やYがOを殺害するに至った経緯等については信用できるのであって、Sらの供述によると、

<1> M、被告人は、Sの運転するベンツに乗り込んで第二サティアンに向かったが、ベンツが出発してすぐに、Mは、「これから処刑を行う。」と言ったこと、

<2> 第二サティアン三階の「尊師の部屋」には、M、被告人のほか、B、A、S、I、Gらが集まったが、その場で、Oらが第六サティアンに侵入して催涙ガスを噴射したこと、OとFの関係、Oらの所持品等についての説明があった後、Mが、「これからポアを行うがどうか。」などとOらを殺害する旨を言ったところ、B、A、I、Sらがそれぞれこれに賛成する発言をし、被告人も、「自分のまいた種ですからね。」などとこれに賛同する発言をしたこと、

<3> その後、Mが、「YがOとFの関係を知らないとするならば、YもOに騙された被害者である。カルマから言って、YがOをポアすべきである。」という内容の話をし、Yを室内に入れるように命じたこと、

<4> 「尊師の部屋」で、Yにおいて、Oの頭部に被せられたビニール袋内に催涙ガスを噴射し、さらに、Oの頚部にロープを巻き付けてこれを絞め付けるなどしている最中、被告人も殺害現場の方向を見るなどしていたこと、

<5> O殺害後、Mから週一回は道場に来て修行をするように命ぜられてYが解放される際、被告人は、Yに対し、「修行頑張りましょうね。」と言ったこと、

<6> Oの遺体が地下室に運ばれ、A、Iに送られてYが立ち去った後、被告人はMから「ヤソーダラには見せたくなかった。」と言われた際、「法則どおりだと思います。」とO殺害を肯定する発言をしたこと

などの事実が認められる。

五  共謀の成否

前記二及び四5で認定した事実を前提に、被告人とMらのO殺害に関する共謀の有無について検討するに、右に認定した事実からは、

<1>  被告人は、本件当時、教祖でもあるMの妻であり、また、教団内では正大師という最高のステージにあったこと、

<2>  被告人は、第六サティアンでMから誘導を依頼されたときのMの説明、第二サティアン三階の「尊師の部屋」でのAやBらの説明から、OとYがFを連れ戻すために教団施設に侵入し、教団信者に催涙ガスを噴射するなどして暴れるという、教団に敵対する行動を取ったことを認識、理解していたこと、

<3>  被告人は、第二サティアンに向かうベンツの中で、Mが「これから処刑を行う。」と言ったのを聞き、また、「尊師の部屋」において、Mが「これからポアを行おうと思うがどうか。」と言ったことから、Mが、教団に敵対する行動を取ったOらに対し、私的制裁として同人らを殺害しようとしていることを認識、理解したこと、

<4>  にもかかわらず、被告人は、Mの言葉に賛成するB、A、I、Sらに続いて、「自分のまいた種ですからね。」などと述べ、Oらに私的制裁を加えることに賛意を表していること、

<5>  その後、MとYとの会話で、YがOを殺害することになったが、その際も、これに反対する言動やその場から立ち去るなどの行動を取っていないこと、

<6>  実際に、Yや教団幹部らによってOが頚部を絞められるなどして殺害されたときも、その現場にとどまり、殺害現場の方向を見るなどしていたこと、

<7>  O殺害後、Mに対し、「法則どおりだと思います。」などと言って、Oの殺害を肯定する趣旨の発言をしていること

などが認められ、これらの事実に照らすと、被告人は、教団に敵対する行動を取ったOらに対し、Mが教団として行う私的制裁としての殺害行為に、教団幹部として賛成したといえるのであるから、被告人が「自分のまいた種ですからね。」などと言って賛意を表した時点で、Oらを殺害する旨の共謀が成立し、途中、Mの意向でYによってOを殺害させるという事態になったものの、被告人は、その点にも何ら異議を述べず、O殺害現場にとどまったものであるから、最終的には、MがYに対しOの殺害を命じた時点でMやその他の教団幹部と被告人との間の共謀が成立し、Yがこれに応じた時点で、Yとの間でもO殺害の共謀が成立したと認めることができる。そして、YやA、I、H、D、Gら教団幹部は、右共謀に基づき、ロープでOの頚部を絞め付け、暴れるOの身体を押さえ付けるなどしてOを殺害したのであるから、判示のとおり、被告人も、殺人の共謀共同正犯としての責任を負うというべきである。

(法令の適用)

罰条 平成七年法律第九一号附則二条一項本文により同法による改正前の刑法(以下、「改正前の刑法」という。)六〇条、一九九条

刑種の選択 有期懲役刑

未決勾留日数 改正前の刑法二一条(七〇〇日算入)

訴訟費用 刑事訴訟法一八一条一項ただし書(不負担)

(量刑の理由)

一  本件は、オウム真理教の最高幹部の一人であり、教祖であるMの妻でもある被告人が、Mや他の教団幹部らと共謀の上、脱会した元信者を殺害したという事案である。

二  本件犯行は、教団を脱会した元信者と被害者が、教団施設に侵入して、元信者の母親を連れ出そうとしたことなどから、教団の教義からすれば、被害者は教団に対する敵対行為を働いたとして、教団の独自の論理に基づく私的制裁として行われたものであって、Mを中心とする教団の組織的な犯行であるとともに、その動機も著しく反社会的なものであり、酌量の余地は全くなく、悪質極まりない。犯行態様は、被害者と一緒に侵入した元信者に被害者の殺害を命じ、被害者の頭部にビニール袋を被せ、その中に催涙ガスを噴射して苦痛を与えた上、助命嘆願の叫びをあげ、必死に抵抗する被害者の身体を教団幹部らが押さえ、元信者がその頚部にロープを巻いて絞め付け、窒息死させたというものであり、残忍で情け容赦のない冷酷非道なものである。本件犯行の結果、被害者は、多大な苦痛に曝された上、未だ二〇代の若さにしてその生命を奪われている。しかも、殺害後、被害者の遺体は、マイクロ波を用いた死体焼却装置で焼却され、一片の遺骨も残らなかったのであり、被害者の無念はもとより、唯一の息子を奪われた母親の絶望感は察するに余りある。それにもかかわらず、これまで被告人側からは何らの慰謝の措置も講じられておらず、被害者の母親が犯人の極刑を望んでいることも当然といわなければならない。さらに、教団では、その後、元信者が所在不明になったことから、その口を封じるため行方を追及し、元信者を教団施設に拉致しようとするなど、犯行後の情状も悪質である。

被告人の個別の情状をみても、被告人は、教団において正大師と称する最高幹部の地位にあり、また、教祖であるMの妻という立場にあったのであるから、Mや幹部らの暴走を抑止すべき責任を負っていたというべきであるのに、Mからの殺害の提案に対して明確に賛成し、犯行現場にとどまり、殺害後においても犯行を肯定する発言を行うなどしており、その果たした役割には軽視できないものがある。また、被告人は、終始その刑責を否定する態度をとっており、反省の態度にも乏しい。

これらの点に照らすと、被告人の刑責は重大であるといわなければならない。

三  しかし他方、被告人は、直接殺害の実行行為を行っていないこと、Mから誘導を命じられるままに犯行現場に付き従って本件に関与したという点で、被告人の関与そのものは偶発的といえること、謀議の場面においても、Mや教団幹部らの賛成意見に追従した形で意見を述べており、自ら積極的に犯行に関与したとまではいえないこと、前記のとおり反省の態度には乏しいものの、公判廷においては、被害者やその遺族に対して一応の謝罪の意を示していること、被告人にはこれまで前科はないことなど、被告人のために酌むべき事情も認められる。

四  そこで、これら被告人に有利不利な一切の事情を総合考慮し、主文のとおりの刑を量定した。

(裁判長裁判官 仙波 厚 裁判官 宮崎英一 裁判官 井下田英樹)

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